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世界が明日終わるとしても−6






このまま進めば袋小路だ。隘路に追い詰められ狩られる。誰が誰に?
老いた男の自問に答える者はいない。不穏さを増していく状況ははっきりしている。いずれ大規模な暴動、或いは内乱。いや、内戦になる可能性もある。軍人として得られる情報以上に、肌で感じていた。何処かで堤の穴から崩れだし、激流がすべて飲み込むのではないか。度重なる戦争と出兵に伴う財政の悪化だけではなく、もっと根源的に何かが変わろうとしている。それが何であるか言葉にできなくとも、足元が揺らぐ不安は消えることは無かった。
手をこまねいて状況が好転することは無い。次の行動に出なくては。将軍は不安の出口を半ば無意識的に逸らしていた。今行動しなければ、私が崩れ落ちる・・・。

「第三身分に、平民に政治の何がわかるのだ」
「特権階級がなければ、第三身分が取って代わるなどと」
「あのような本を出版させるとは取り締まりはどうなっている。愚民共が益々増長するぞ」
ヴェルサイユの煌びやかな廊下の其処ここで、顔を歪めた男たちが声を荒げている。最近では珍しくもない光景だ。ほんの数年前、いや去年までは平民など卵を産む雌鶏くらいにしか思っていなかった貴族達が、顔を顰めなくてはならないほどに、平民の存在は大きくなっている。

――今こそ王権を強化しなければならない。このままブルジョワや一部の貴族の力を増長させては、王政の存続すら危ういのではないか。
その主張に部屋にいる面々はどよめいた。軍上層部だけの極秘裏な会合とはいえ、古参の将軍の言葉はいっそう重かった。
「貴方のような王家に忠実な武官の言葉とは思えませんな」
「だからこそです。今のうちに抑えておかなければ、崩れてからでは遅い」
「何が崩れるというのかね」
「いや、私は将軍の意見に賛同しよう」
「具体的な対策を・・軍隊をパリに集結させて」
「アルマン連隊は・・」
将軍は眉間に皺を寄せて、こめかみを押さえていた。神から賜った権利と秩序は守らなければならない。それは余りにも自明なことなのだ。世の理を乱す者には報いがある。分かっているはずだろう・・オスカル。



窓枠が音を立てて揺れている。空は雲が厚く立ち込め月の光もない。こんな日は胸の奥に鋭い痛みが走る。せり上がってくる咳を抑えられず、骨が折れるように身体を縮めたことも何度もあった。胸だけでなく、血が無くなったようなだるさも。
私の中で何が起こっているのか・・知りたくとも医師が往診しているときは、誰かが付き添っていて聞くことはできない。だが臥せっていても急を告げる時世は忍び寄ってくる。三部会の招集、冷害による飢餓、そして王太子の病。私はこんな時に何もできず、ただ青い顔をして寝台に縛り付けられている。

此処で、このままでいてはいけない。焦る気持ちが先に走り、オスカルは寝台から降りた。窓の傍へ行き流れる雲を見あげた。春らしい気配は何処にもない。知らず、視線は屋敷の上、東側の使用人居室のある棟を見ていた。あの部屋にはもう誰もいない、彼ひとりの部屋だった。幼い時は何度も一緒に星を見た。館の中で一番星に近い部屋。オスカルは上着を肩にかけ部屋を出た。

母にも侍女にも見咎められなかった。廊下や階段を横切る間、誰の目にも触れなかった。だから辿り着けたのだ。ドアに手をかけようとして躊躇った。この部屋に入る資格があるのか、その自責が足を止める。だが彼の行き先の、手がかりでもいいから知りたいという気持ちが扉を開けた。
部屋の中は簡素だった。寝台や棚や小卓の上も、多分殆ど彼がいた時のままなのだろう。彼の祖母がそのままにしておくよう願ったのかもしれない。心臓のあたりが痛んだ、何か、何でもいい彼の行方を知ることのできるものは。
卓の引き出しを開けると、見慣れた筆跡が目に留まった。小さく声が上がって思わず掌で口を抑える。何度も見ていたはずのものが、これほど痛みを伴うと思わなかった。急かされるように、手紙や書きつけの束を探った。
何処に行ったんだ、何処にいるのだ、どうして帰ってこない・・もし、私の命が短く限られたものだとしたら、彼を探さなくてはならない。
眼の奧が熱くなるのを振り払おうとしたとき、手紙の幾通かが滑り落ちた。床に散らばった手紙を手に取ると、それは彼の筆跡ではなかった。が、封蝋には見覚えがあった。差出人の名前は主治医の物だ。心臓が大きく跳ねる。

鼓動が大きく他の音が聞こえなくなった。手が小刻みに震え、紙片を取り落としそうになる。オスカルは手紙を卓の上に広げた。燭台の揺らぐ灯りが手元に影を落としている。医師からの手紙、書かれていたのはアンドレのことだ・・彼が診断を受け、そのまま治療に来ないことを案じて・・治療・・宣告・・・。

いつの間にか蝋燭の火が燃え尽きて消えていた。月は厚い雲に隠れている、灯りもない、真の闇。手紙の白さだけが浮かび上がっている。他には何もない。彼女自身も。全て消えてしまった、浮かぶ黒い文字以外は。
“一刻も早く、適切な環境で治療を受けなければ”“時間の問題だと言ったはず”“このまま手をこまねいて、失明することになったら・・”

―――失明?



『お前の眼でなくて良かった、本当に』
そう言っていた。
『左目で何でも見える。お前が負担に思うことじゃない』
そう言ったんだ、微笑んでさえいた。いつも静かに・・どんな時でも私を責めるようなことは無かった。
『お前さえ見えていれば、それでいい』
見えない?どうして?何故。判っている、私のせいだ。でも何時から、いつ知ったんだ。何も言わなかった、言わなかったのに・・私には何も・・・・いや・・違う。

違う違う違う―――違う!
暗がりの中で手紙の文字を追う。彼が知ったのは、宣告を受けたのは・・・あの頃のことだ。あの時、言っていた。私はそれを聞いた。
――――――――――――――――助けてくれ
言葉にならなくとも、聞いていたはず、知っていたはずだ。
頭の中が、心臓の音が煩い、血の流れる音が大きすぎて大切なことが聴こえない。己の悲鳴で彼の声が聞き取れなかった。あの時―――――

ぐらりと床が揺れ、何かが倒れる重い音がした。崩れ落ちる身体を支える力がない。視界の外側から暗闇が下りてくる。


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